会津藩は、南部領の一部、陸奥に移封され、名前も斗南藩となります。藩存続に感涙し、将来に希望と託したものの、当時はまだ半年間雪に覆われた痩地、火山灰地であり、とても一同を養う土地ではないことを誰一人知りませんでした。
「終日いろりに火を絶やすことなきも、小屋を暖むること能わず、背を暖むれば腹冷えて痛み、腹暖むれば背凍りつくがごとし。・・」「挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか。」※
本を読み終えて後、あまりの強烈な印象に、当時の柴五郎少年が餓死と戦った、落ちの沢という地。一体どんなところだったのか。何か機会があれば、それこそ厳寒の季節にと思っていたのです。
大湊線の終点まで行き、折り返しの時間を利用して、駅でタクシーの運転手さんに事情を話したところ、すぐ通じました。
特に何もないがこの路地を真っすぐ進み、鳥居を右に曲がったあたりがそうで、札がでていると、雑木林の入口で教えられ、ずぼずぼ雪に埋まりながらその場所へ行きました。
その時間は少々陽もさして、雑木林に雪もキラキラ光り、今となっては当時を偲ぶのは無理なほど綺麗な光景でした。
帰り道、運転手さんが教えてくれたのですが、現在までもずっと定期的に旧藩士の供養のためのお供えを続けている老人がいらっしゃたとの話しです。ところが、つい先日お亡くなりになったところだとの事でした。これからはどうなるかなあとも話されていました。
列車の時間までまだ少しあるからと、海岸にある、上陸の地の碑なども案内していただけました。そして駅までと再度車に乗り込もうとした時にふと見上げた山の頂上。なんだか異質な建物が。
これが最近建てられたばかりの防衛のためのレーダー施設なのだそうです。
運転手さんも、山容が変わっちゃったね、とぽつり。
時代は移り変わりながらも、波は絶え間なくやってくるものなのだと、なおさら実感したのです。
※石光真人編著「ある明治人の記録(会津人柴五郎の遺書)」中公新書 より