今から32年前。高校生の時の夏休み。父が仕事で宮城・岩手に出かけるという時に一緒に出かけたことがあります。この頃はすでに東北道が仙台あたりまでは開通していたため、車でした。
岩手の江刺あたりから岩手の山地に入り、途中、遠野を経由して釜石に出ました。当時、取引先があった宮古と久慈に一泊ずつしたのですが、父が用事で出かけている間、私は自由に海で泳いだりしていました。この頃、まだ現在の三陸鉄道は工事中で、久慈から南は普代という駅が終点になっていました。終点とは言っても、その先に真っ直ぐに新しい線路が作られていて、だいぶ先のトンネルに消えていました。
なんとなくローカル線というには似つかわしくない、コンクリートの頑丈なまっすぐの線路が伸びていて、この先もうすぐ新しい路線として完成するのだろうなと思いました。
確かに、日本全国、海岸線沿いには大体線路が通っているのに、三陸海岸沿いは一部しかありませんでした。
そしてその数年のち、沿線悲願の三陸の鉄道が全通したというニュースが流れました。
その後、なかなか鉄道で出かける機会はほとんどなく、丁度30年後、一昨年の2月初旬に、八戸から久慈・宮古・釜石と三陸海岸沿いをようやく乗り通すことになりました。そして翌月に震災が起きました。
実際に乗ってよくわかったのですが、海岸沿いの線路とはいえ、鉄道路線としては新しい路線だけに、ほとんどがトンネルとコンクリートの橋。切り立ったリアス式海岸には、そうでなくては鉄道を通せなかったのですが、そのコンクリートの橋脚までが、あのように破壊されてしまうことには驚愕としか表現のしようがありません。
長い年月かかってようやく全通した鉄道。それが分断されている現状。それでも三陸鉄道は、先の事情で、まだ復旧の目処がたちやすい条件の線路といえるのでしょう。それ以外のJR部分の先行きが見えない事は地元に人にとって大変な問題です。