ちょうど4年ほど前になります。経済的に激動の年となった2008年の暮れに経済雑誌のコラムで櫻井よしこ氏が、いまこそ政治家、お役人それに多くの読者にお手本として薦めたいと紹介していた本の一冊を正月に読み、相当な衝撃を受けました。
石光真人編著「ある明治人の記録(会津人柴五郎の遺書)」中公新書。
柴五郎は会津の上級武士の五男として生まれました。
会津藩主は大政奉還の後、祖宗以来の労苦を慰労され、皇国の維持をとの詔勅を賜りながら、その前日に会津討伐の密勅と錦旗が薩長にくだされます。
藩主が戦火を避けるために謹慎し、強硬論を抑えるものの会津討伐が迫るなか、城下の様子は一変します。
家の中も皆が寡黙になり、大人は小声で何事かを相談することが多くなりました。そんなある日に、10歳の少年だった五郎だけが、散策を名目に城下から郊外の山荘に連れて行かれ、その翌日に城下では討伐軍の侵入による騒乱がはじまりました。
騒ぎを聞き、山荘から燃えさかる城下に向かったものの、あまりの火の勢いにこれ以上近づけないことを悟った少年が、「口惜しさのあまり母上、母上と叫びながら、地をたたき、草をむしりて号泣す」。
翌日、山荘を訪れた親類の老人から、敵の城下侵入に際し、退去を拒否した祖母、母、姉妹が自刃し、頼まれて介錯し、家に火を放ったと事の次第を教えられます。
「幼き妹までがいさぎよく自刃して果てたるぞ」と聞き、眩暈してそのまま数時間気を失います。
それから2ヶ月の間、毎晩、一家団欒の夢を見、目が覚めるごとに愕然とする日々を送りました。
その後、城内に篭っていた父・兄とともに江戸へ俘虜として収容された後、移封された地が、冬には厳寒の作物もろくに育たない陸奥で悲惨なる飢餓を味わされたのです。
柴五郎はその後、下僕として働きながらも軍に入り、北清事変(義和団の乱)で活躍し、藩閥外ながら陸軍大将、軍事参議官にまでなりました。そして敗戦の年の12月、少年の時に自ら拾い集めた母・祖母・姉妹の遺骨とともに永眠されました。
この本は、柴五郎が晩年、葬り去られた歴史を、自らの菩提寺に納め、肉親を弔いながら自身も眠りにつく目的で筆記した書を、たまたま編者に文字の添削を依頼したことから世に出たのです。