それでは裁判の判決などは別にして、本来どうするべきであったのか。ということが問われます。
事故を予見できたのか、出来なかったのか。
これは、「想定できたのか」「想定できなかったのか」と言い換えると、まさに現在の原発事故の問題を経た私達には、福知山線事故の当時とは違う視点から考えなければならない事になってしまいます。
当時の常識では「予見できなかった」としても、ある一定の理解を得られたとしても、現在の常識は変わりました。
ミスをした社員に対し、ペナルティの意味合いを含む教育がなされていたとしたら、戦後の「貴様らは・・」とは時代を飛び越えて、新たに「精神論で・・」との批判は受け入れざるを得ません。
常識では考えられなくとも、人間が操作すれば起こりうる危険は「想定できる」事象に入ります。乗客の命を第一に考えれば、積極的により安全な装置の導入を計画的に進めなければならないという判断が正しいと思われます。
それでは、鉄道会社には、そのように判断すべきと考えた人はいなかったのでしょうか。
ここで、以前にホームの安全の事で触れた、鉄道技師に島秀雄氏の話になります。
島秀雄氏は生前、ホームドアの件とは別に、鉄道の進むべき方向として、「鉄道車両の運転は完全に自動化し、人間は安全確認に注力する」と主張していたというのです。
島氏は、専門家としての膨大な事例・研究から、おそらく早い時期に、人間による操作の正確性に限度を感じ、既に進むべき方向性は見えていたのではないかと思われます。
ただ、現実の鉄道会社の運営側としてみると、輸送需要の増大化の過程、そして人口減による旅客数の減少の時代と、常に、目の前の事象に対応を迫られ、「理想」は後回しにならざるを得なかったとも言えます。これだけ相互乗り入れなど、複雑化した路線に、さまざまな種別の列車が行き交う大都市圏の車両、しかもこれだけ高密度で運行されている鉄道車両を自動化するには、一体どれだけの・・。それにかかる費用は?・・、新たに決定された整備新幹線の予算は?・・ ・・・
「人」のために、よりよい道を考えるには、経済的な常識から離れて、それこそ極端に言えば「理性と英知」にまで踏み込まざるをえないほど、現在の私達につきつけられた問題は重いのです。