さいたま市の川合運輸株式会社です

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三丁目の夕日 2

ALWAYS 三丁目の夕日(第1作)の終わりのシーン。

帰省するかどうか迷った堀北真希さん演ずる六子が、帰省を決心して、上野駅を出発した列車に乗っているシーン。客車の椅子にちょこんと座って、ほんわかとした暖かい光の中で六子が窓から外を見ていると土手から・・。

実は、私はこのシーンはでは、せいぜい「青森に帰るなら普通は夜行でしょ?」と思ったくらい。

ところが。

今から6年くらいまえに、東京から移転した鉄道博物館がさいたま市にオープンしました。その開業直前に、市の主催で関川夏央氏を招いての講演が大宮で開催されました。

鉄道にまつわる様々な関川氏独自の解説はとても面白く、今更ながら大きな発見がありました。

その中で関川氏は三丁目の夕日の丁度このシーンのことにも触れていたのです。

「昭和30年代」の「大晦日」に「上野駅」から東北方面への列車に乗ることがどういうことだったかと。

そうなのです。当時、帰省の大混雑は現在とは想像もつかないくらいの事。丁度映画の設定の昭和30年代中頃からは、帰省客のために、公園口にテント村が出来て、乗る列車ごとに場所が決められて順番を待ちながら夕方から夜にかけてホームに移動するような騒ぎだったのです。

関川氏は続けて、団塊の世代の人であれば、当然当時を知っている。だけどこの世代の人はおとなしくて、あまりこの相違についても、あえてものを言わない。だけど、若い人もこの映画を見る。こうして世代間の認識の断絶は確実に進むのです、と。

言われてみれば・・。私が初めて上野発の夜行の乗ったのは、それから10年後。真夏の夜の上野駅の光景は鮮烈で、まだ当時の面影を多少感じるものでした。

やはりわたしはひと回り下の若輩者でした。

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三丁目の夕日

ALWAYS 三丁目の夕日’64がテレビで放映されていました。

昭和レトロの懐かしさと、人情味のあるシーンでなかなか好きなのですが、この作品はCGを使用した当時の情景の再現に力が入って、鉄道好きにも筋書きとは別に関心が湧くものです。

実は私は見ていないのですが 続・三丁目の夕日(2作目)のあるシーンの撮影方法が凝っていました。
小雪さんが演じるヒロミが大阪に旅立つシーン。新幹線が開業前の設定ですから、そのまえの「こだま」型の特急電車に乗ることになります。

これをどう撮影するかは結構見ものです。今の車両ではマニアはすぐ見破ります。

このシーンは実際の風景、実際の車両、すこし大きめの模型を動かしたシーンを組み合わせて合成したとのことです。

実際の車両とは、全国で2両だけ保存されている、当時のこまだ型の1両が車両メーカーで保存されているものを使用して撮影しています(もう一両とは鉄道博物館にある「とき」)。ホームに見立てた仮設の台に小雪さんが乗って車両に乗り込む撮影が行われましたが、映画ではその台が当時の東京駅のホームに変身していました。

鉄道好きというか部分的マニアから見ても、このシーンだけでここまでこだわる?というくらい本格的なものだったのです。

と、ここまでは正気の人には全く関心のない話でしたね。

ところが、そこまでこだわるのに、あれれ?というところがあったのです。

※画像 作者 Rsa GFDLライセンス公開
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:JNR151KODAMA.jpg

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踏切

昨日で発生した兵庫の踏切事故は、重軽傷のけが人がでる大きな事故になりました。映像で見る限りは、キャリアカーの後部の損傷状態からは、想像しにくい位に電車に被害が大きかったです。

当初詳しい状況が不明だったので、大幅に重量が重い鉄道車両が、キャリアカーとの接触で、ここまで大きく被害がでるのか少々疑問でした。

今日の報道では、ちょっと驚くようなプロセスのようです。

もともと踏切は危険なもの。昔から問題視されつづけ、何十年も前から新設される線路は踏切はまず作られません。その中でも、今回の現場の踏切は、前方の信号のある交差点との距離が近い、より危険な踏切。事故事例などでもよく登場するパターンです。

1台の乗用車が赤信号で停車中で、間隔に余裕のない状態で渡ってしまった。まずここが原因なのですが、つぎに、キャリアカーの一番後ろの、上に跳ねあげてあるスロープのところに遮断機がおりてしまい、引っかかった状態に。

この遮断機がおりてしまったので立ち往生してしまったというケースも、よく教材で登場するパターンです。この場合は、鉄道会社側でも、遮断機のバーは、はずれるか、折れるようになっているので、そのまま進んでください。とにかく車を踏切外に出してください。とアナウンスしています。

今回の当事者に人は、引っかかったことを解消するために、わざわざスロープを下ろしたために、よけいに線路にはみ出してしまったようです。

レールに近い、低い位置に障害物があったために脱線し、被害が大きくなったものと思われます。

スロープをそのままにしておけば、接触までにはならなかったのではないでしょうか(踏切内の障害物発見ということで電車は急停止したかもしれません)。

とにかく、踏切は要注意。特に不慣れな人は、遮断機のバーにパニックになりかねません。遮断機バー自体は怖いものではないと覚えておく必要があります。

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落ちの沢

会津藩は、南部領の一部、陸奥に移封され、名前も斗南藩となります。藩存続に感涙し、将来に希望と託したものの、当時はまだ半年間雪に覆われた痩地、火山灰地であり、とても一同を養う土地ではないことを誰一人知りませんでした。

「終日いろりに火を絶やすことなきも、小屋を暖むること能わず、背を暖むれば腹冷えて痛み、腹暖むれば背凍りつくがごとし。・・」「挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか。」※

本を読み終えて後、あまりの強烈な印象に、当時の柴五郎少年が餓死と戦った、落ちの沢という地。一体どんなところだったのか。何か機会があれば、それこそ厳寒の季節にと思っていたのです。

大湊線の終点まで行き、折り返しの時間を利用して、駅でタクシーの運転手さんに事情を話したところ、すぐ通じました。

特に何もないがこの路地を真っすぐ進み、鳥居を右に曲がったあたりがそうで、札がでていると、雑木林の入口で教えられ、ずぼずぼ雪に埋まりながらその場所へ行きました。


その時間は少々陽もさして、雑木林に雪もキラキラ光り、今となっては当時を偲ぶのは無理なほど綺麗な光景でした。

帰り道、運転手さんが教えてくれたのですが、現在までもずっと定期的に旧藩士の供養のためのお供えを続けている老人がいらっしゃたとの話しです。ところが、つい先日お亡くなりになったところだとの事でした。これからはどうなるかなあとも話されていました。

列車の時間までまだ少しあるからと、海岸にある、上陸の地の碑なども案内していただけました。そして駅までと再度車に乗り込もうとした時にふと見上げた山の頂上。なんだか異質な建物が。

これが最近建てられたばかりの防衛のためのレーダー施設なのだそうです。
運転手さんも、山容が変わっちゃったね、とぽつり。

時代は移り変わりながらも、波は絶え間なくやってくるものなのだと、なおさら実感したのです。

※石光真人編著「ある明治人の記録(会津人柴五郎の遺書)」中公新書 より

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戊辰戦争

「ある明治人の記録(会津人柴五郎の遺書)」

おどろくべき内容。本当に衝撃を受けました。

日本の近年でありながら、歴史とは勝者の歴史?と考えされられます。
このあたりの歴史は数々のドラマがつくられ、現在なおテレビでもとりあげられていますが、まだまだ知られていない事実があるということですね。

単に「戊辰戦争」の四文字で通りすぎてしまうわけにはいかないのです。

少年期の柴五郎の目で見た当時の状況、心情が正直に綴られた第一部「柴五郎の遺書」は100頁少しの内容。これは実際に読んで頂くしか伝えようがありません。

他にも「石光真清の手記」(四部作 中公文庫)が挙げられていましたが、これも明治期。櫻井よしこ氏によれば、日本人の誇りと勇気を取り戻せるに違いない本を、と考えて選んでみたら、すべて明治の人の記録だったとの事。

石光真清は明治、大正期を、シベリアと満州での諜報活動に身を投じた人です。こちらも大陸での壮大な物語のような詳細な手記。

それまで「坂の上の雲」などを読んだりしても、どうも日露戦争時の日本と、その後の昭和期とで、断絶感とでも言うようなものを感じていたのです。ところが、今回の本を自分なりにその間の一部が埋められたように思います。

明治維新当時の日本に生まれた人の特殊な環境が、本来植民地化されてしかるべきの運命を奇跡的に変え、そして国としての組織が本格的に出来上がった頃に歪がすでに生じていたのではないでしょうか。

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冬の下北半島

こんなに寒いのに、余計に・・。
これは現在ではなく、一昨年の1月初め。
休み明けに宮城県に所用があるため、週末から青森方面に行った時の画像です。前日から大雪でした。

下北半島の終着駅、大湊。到着してからしばらくは雲が晴れて穏やかな天気になったのです。

帰路、大湊線の車内から観た津軽海峡です。
割合天気がよさそうに見えますが、実は相当な強風なのです。これだけ海岸近くですから、列車は最徐行で通過してます。この列車以降は運休になりました。

途中駅での対向列車も遅れて、いよいよ先が見えなくなりました。
どうも案内が、後手後手で上り下りのどちらに向かうべきか、判断がつかず、二人の若い女性の駅員さんに、現状の見込みでいいですから、どちら方面に行くかの参考にしたいからと、情報を頼みました。二人でしばらく相談しながら、こちらに答えようとしたところで、後ろから突然年配の駅員さんが、大声で「全くわかりません!」。

どうも国鉄時代のままの人もまだいらっしゃるようです。

というわけで、乗り換えそこねてしまった野辺地駅では長時間足止め。ところが、現地の人は待合室のあまり効かないストーブを前にして、寒い中でも黙って皆さん静かに待っているのです。やはり東北の人はおとなしくて我慢強いのですね。

ところで、わざわざこんな季節に行ったのには訳があります。

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駅弁大会

何故にこれほどにまで駅弁大会というものが、有名になったのかと不思議な気がします。
そもそも少なくとも30数年以上まえから、ある超老舗駅弁は当時すでに殆ど駅売りはせず(駅前の売店では扱っていたらしいですが)、ほとんどの売上をこの駅弁大会であげていたと鉄道関係の雑誌で読んだことがあります。

さて、鉄道好きな私が鉄道に乗って駅弁を買ったのはいつか。そういえば2年前くらいにありました。その前は・・7,8年前位ですかね。売店で数も少なく、改札内側から私が「ひとつください。」と同時に改札外から別の人が「4つください」。売店の人は先に私に一つ渡して、改札外の人には「すみません。あと一つしか残ってないです。」

でも現在の普通列車では食べにくいですね。ホームのベンチでも今ではどうも。そもそもホームの駅売りもほとんどなく、どちらかというと、最近になって観光も含めて力を入れだしたところが目立つ位では。

そのようなわけで、伝統ある駅弁も本来の姿としてはだいぶ様変わりしているのですが、この駅弁大会は、テレビでもよく取り上げていて大人気。伝統のものだけでなく新しい味に挑戦したりして、大いに熱が入っているのです。

私の場合は鉄道旅行の郷愁を感じるのは、その前に「食堂車」なのですが、比べ物にならないほどに多くの人にとって「駅弁」というネームが郷愁を呼び起こしているのではないでしょうか。それが人気の源泉かも知れないですね。

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千葉県 いすみ鉄道・大原駅の伊勢えび弁当。意外にも伊勢海老の水揚げ日本一だそうです。

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停電

上越新幹線が停電のために止まったというニュースを見ました。

ところで大雪で上越新幹線が止まったという話は殆ど聞きませんね。元々の豪雪地帯ですから、その辺は融雪スプリンクラーなどの設備は相当なものらしいのです。

おそらくはその設備のランニングコストも膨大だとは思いますが、昭和30年代の雪による列車の遅れの最長記録をもつ上越線。新幹線ができる前の昭和50年代も度重なる冬期の車両故障で、国鉄の予定外に新車両が増備されたり、雪に対する挑戦はすごいですね。かの島秀雄氏は上越新幹線を「聚楽第」と呼んでいたとか。

最近、上越新幹線と在来線の接続駅のひとつの駅の建設費が、今回の東京駅の復元工事と同費用だったと聞いたのですが、うーん、それは・・。

でもこのところの天候は、ただ単に積雪が多いとかという問題を超えた気象状況が発生しています。

北海道での停電は、即、命にも関わる問題ですね。首都圏でも地方とはまた違った状況の想定が必要になります。代替えのエネルギーが解決しない状況下では、電力不足も停電への引き金になるかも知れません。

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懐かしい色

丁度乗り合わせた電車。
一応話には聞いていましたが、東武鉄道が土日を中心に大宮駅からスカイツリー駅まで1往復の直通の臨時列車を走らせています。

その列車に使われているのが、昭和38年に登場した8000系という電車。いまでも活躍中ですが、その後の色の変更や、前面の改造でだいぶ印象が変わっています。その登場時のオリジナルの顔の電車に、昔の色を塗ったもの。

懐かしいと思うのは私の年代以上の、東武沿線にいた人でしょう。
いつのまにかクリーム一色の変な色になり、その後、白に青のラインに変わって行きました。昔聞いたはなしでは、保線の安全確保からも明るい色が希望されたとも。

当時はどちらかというと、あつぼったい色というイメージもあったかも知れませんが、写真を見た奥さんは「綺麗!」。ホームでこの電車を見た女子高生は「可愛いー!」。・・だそうです。

40年ちかく経てばさすがに新鮮になるんですね。

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東京駅ライトアップ2

昔から東京駅といえば赤レンガというイメージですが、ある頃までは、実は建設当初は3階建てのドームの立派な、現在(今回の修復前)とは全く違う姿だったというのは知りませんでした。昔の写真を見てあまりの威容の違いに驚いたのをよく覚えています。

消失した3階部分を撤去して、仮の復旧のままで60年以上そのままで使用された建物。天井裏を調べると本当に資材不足の時の応急的な継ぎ接ぎの材木も使用されていたようです。

中央停車場として計画され、大正期に完成した東京駅は、当時は原野であった丸の内側に作られました。当然出入口は丸の内側のみ。駅から正面まっすぐに見えるのが皇居。一般の乗降用の出入口は北側と南側のみ。中央は皇室専用でした。
日本の象徴としての建物でもあったわけです。

ついぞ3階建ての往時の姿の復活なんて夢のまた夢だろうと思っていましたから、今、こうしてたくさんの見物の人達とライトアップされた東京駅を見上げていると実に感慨深い思いがします。

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