さいたま市の川合運輸株式会社です

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上野東京間2

私が小さい頃の、ほんの一時期、本来は上野行きのはずの仙台発の特急ひばりの行き先が「東京行」となっていて、「えっ、何で?」と思ったのです。

東海道方面は東京発ですが、東北方面は上野発、というのがもともと公式ですよね。

実は東北本線の正式区間は「東京~青森」である、というどうでもいい事実は別として、その時の列車はどこを走っていたのかという疑問が当時ありました(現在は盛岡までに変わってます)。

その区間は、新幹線工事前には、もともと在来線用の複線が通っていました(山手・京浜東北線とは別に)。ただ、一般的な路線という位置づけではなく、貨物もしくは回送用というもの。お客を乗せたのは、古くは戦後の進駐軍専用列車(若い人も知ってね)、その後、東北・上越方面の特急の一部が東京駅まで乗り入れていた時代(昭和40年代後半まで)だけでした。

私が見かけたのはそのほんの少しの期間だったのです。

その後、東北新幹線用の工事が始まるにあたり、神田付近の線路用地は新幹線用になり、その一部の在来線の区間は途絶えた状態で今まで来たということなのです。

ところで、この新幹線を通すときも反対があり、そのときに新幹線を通したら、在来線を更に別に通す工事はしないという口約束もしくは文書があったとかで、今回の工事にたいしての反対の理由にもなっていたようです。

さらにミステリアス(でもないか)なのは、新幹線工事の際に、将来の在来線の増設も見込んだ基礎工事?がすでになされていたとも。

もしそれがないと、この工事に関してあまりに工程などがかかりすぎて計画が成り立たない可能性もあったようです。

先日の朝の混雑度を見れば、利用者にとっては早い所完成してほしいのが本音。

朝の通勤事情からまたまた話がかたよりましたね。鉄道のはなしからまた軌道修正しなきゃ。今日は暑かったですね。

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上野東京間

昨日は久しぶりに、朝のラッシュ時間帯に上野・東京間の通勤電車に乗りました。

以前よりは改善されたとはいえ、この区間はかなり混みますね。普段電車通勤していない者にとっては、ドア付近での駅についた時や発車間際の攻防は、やはり異常な様相だと思います。

もっともこの区間の混雑が激しいのは当然といえば当然。

JRの路線で言えば、山手線と京浜東北線しかないわけですからね。

それでのびのびになっていた上野・東京間を結ぶ、「東北縦貫線」と呼ばれる工事がだいぶ進んできました。ようやくあと2年というところ。完成後は、東海道線と東北・高崎線が、今の湘南ラインのようにスルーで走るようになります。

実はこの区間は鉄道が開通した頃の明治期には路線はなかったのです。そのせいでしょうが、特に神田付近は敷地が狭い関係で、新幹線の線路の上に新しく線路を付け足さないとならない(もしくは地下)のが、工期がかかる最大の要因でした。

もちろん神田地区の住民の方の反対もあり、裁判にまでなったので着工自体が予定よりだいぶかかりました。

ところでこの区間の話は結構歴史的というか経緯が複雑なのです。

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中間地点

またまたおみやげが。

うなぎパイ。

これは静岡でしたか、浜松?

浜名湖といえば関西へ向かう中間地点というイメージですね。車で関西へ向かうのに、ようやく半分か、と良く思っていたあたりです。

何故半分かというのは、実は鉄道でのイメージから。

新幹線が出来る前の特急こだまの上りと下りが、丁度中間地点である浜名湖ですれ違ったという有名な場所があったからです。

新幹線になってからも、東京~新大阪の中間はやはり浜名湖の橋の上。

では現在の高速道路では? 新東名も出来て伊勢湾岸などルートも変わりました。東京は霞ヶ関、大阪と吹田と仮定すれば、だいたい浜松サービスエリアを過ぎて浜松いさなジャンクションあたりですかね。もっとも私はさいたまですから実はもっと手前になるのですが。

というわけで、浜松は近くなりましたが、うなぎは遠くなりました。

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足尾銅山

足尾銅山といえば銅山の鉱毒事件の事を抜きには語れませんね。

もともとは江戸期から採掘されていた鉱山でしたが、明治期に近代化と新しい鉱脈の発見によって飛躍的に産出量が上がり、それにともないガスによる汚染で付近ははげ山となり、排水に含まれた鉱毒が下流に流れ、農業に甚大な被害をもたらしたのです。

私が訪れた頃は、閉山していたものの、まだ精錬所が操業していた時代。貨車がまだ動いていました。そして確かに周囲は黄土色の世界。

森林を復元するための植林事業は何と100年以上も続けられているのです。それでも荒涼とした場所はまだまだあり、2011年の震災の影響と思われる土砂崩れから、河川の汚染がいまだに観測されるというような状況なのです。

一度失った自然をとりもどすのがいかに大変か、思い知らされますね。

ところで、この鉱毒事件による渡良瀬川流域の住民を助けるために立ち上がったのが田中正造。現在の佐野市出身の政治家です。

実は、この足尾線に乗っかってのんきに車窓を眺めていた時分はもちろんのこと、割合最近まで実は田中正造の事は知らなかったのです。

私の子供が小学校の授業で国語の教科書の音読が宿題のような日課になって、家で繰り返し毎日聞かされた文章が、この足尾鉱毒事件と田中正造の活躍の話。

何故か子供は、この文章がいたく気に入ったようで、普段とは違ってやけにいきいきと音読していたので不思議に思っていました。話が佳境に入り、明治天皇への直訴未遂のあたりまでくると殆ど講談でも聞いているような感じでした。

田中正造
原典 ”幕末・明治・大正 回顧八十年史” 東洋文化協會

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わたらせ街道

先日、群馬県の桐生近くに行く機会がありました。
県境を超えて近づく山々。埼玉の西部の山とは違って、小さい山でも切り立った山の形がこの地方ならでは。

仕事ですからもちろんとんぼ返りなのですが、後ろ髪惹かれる思いだったのです。

ここから国道122号線を真っすぐ行けば日光に抜けますが、それよりも手前の足尾、そしてそこに至る過程が大事。

以前の国鉄時代の足尾線。今はわたらせ渓谷鉄道になっています。銅山からの輸送を目的に敷設された路線。

実は現在は貨物輸送は全くなくなっているいるものの、もともとは鉱山輸送が目的だった路線は全国にたくさんあります。そのため、結構荒々しい風景の中を走ったりするのが余計にローカル線に乗る魅力でもあるのですが。その分自然の中を走るだけあって近年は土砂崩れの被害が出たりすることが問題になっています。

この足尾線。私は高校生の時に初めて乗ったきり。確か6月頃。緑がまぶしい中を、渡良瀬川沿いをゆっくり進む車両からの眺めは今でも鮮烈に覚えています。

終点は間藤という駅。当時、私はひとつ手前の足尾駅で降りたので1、3キロは未乗車区間。後ろ髪というのは、そういうことです。

ところで、今回行った先は「みどり市」。今日は私は会社で間違えて「さくら市」などと表示して間違いを指摘されて訂正した次第。

さくら市は栃木県でした。

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三陸鉄道南リアス線

昨日は不通になっていた三陸鉄道の南リアス線の一部、盛~吉浜間の運転が再開されました。この区間は丁度、三陸鉄道に転換される以前に国鉄時代に開業していた部分の線路です。

ニュースでは運転士さんが発車直前に感激のあまり、両手で目を押さえてました。

車両が新しくなり、その試運転の最中も、沿線から手を振る人が見えて感激したと運転を担当した人がインタビューで答えていました。

三陸鉄道といっても途中にJRの路線があるため、北リアス線と南リアス線にわかれています。まだ両方共、コンクリートの橋脚が破壊された部分を中心に不通区間が残っていますが、丁度これから1年後には開通する見込みです。

JR路線の部分はもともと戦前までに、盛岡から宮古とそこから海岸沿いに釜石まで、鍵の字状に内陸から路線が開通していた部分なのです。この部分はまだ復旧の目処がたっていません。

この駅も運行が再開された区間です。震災前の画像。

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浦和停車

ダイヤ改正から1週間で、たまたま浦和駅から新宿湘南ラインに乗車する機会がありました。

当たり前ですが朝は混みますね。この停車で乗客の動きはどうなったのか興味があります。

これで新宿・渋谷方面に一本で行けるようになったので利便性は増したのです。今回乗ってみて、やはり赤羽で乗り換えていた時よりは便利かなという感じです。これが座っていければもっと好印象でしょうが。

そして残るは東北縦貫線の工事の完成。

ところで渋谷は本当に多層な駅ですが、今回の東横線の地下ホーム。混雑を心配する声もありましたがどうなんでしょう。

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ICカード

3月23日から、SuicaなどのICカードが全国相互利用出来るようになるようです。

実は、もうすでにそうなっているのかなと昨年くらいに一度、関西あたりでSuicaを改札にかざしたら駄目でした。

ところで全国にどれだけあるのかというと・・

「Kitaca」 JR北海道
「PASMO」 関東私鉄・地下鉄
「Suica」 JR東日本
「manaca(マナカ)」 名鉄、名古屋市交通局他
「TOICA」 JR東海
「PiTaPa」 関西私鉄・地下鉄
「ICOCA」 JR西日本
「はやかけん」 福岡市地下鉄
「nimoca」 西日本鉄道
「SUGOCA」 JR九州

やはり地元以外の名前は馴染みがなかったですね。やはり初めて聞くものばかり。知ってたのは関西のICOCA位かなと思いますが、それも「行こか」でICOCA?と笑ったから印象に残っているのだと思います。

関東以外はやはり面白いですね。

ただし、語呂だけでなく、アルファベットにすべて意味を持たせてあるようです(たぶん殆どの人は知らないのでは?)。

全国相互利用といっても、たとえば東京から東海道線の普通列車を乗り継ぎながら関西まで行くような場合には対応していないとの事。

私にとってICカードになって助かったのはバス。結構慣れない所でバスに乗ると、いくらか不明だったり、両替で手間取りそうだったり、どこにお金を入れたらいいのか一瞬迷ったりとか、どうも勝手がわからないことが多かったのです。

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ダイヤ改正

明後日の3月16日のダイヤ改正。内容はいろいろですが、東急東横線と東京メトロ副都心線の乗り入れが大きい変化ですね。2路線のみならず、埼玉方面に西武池袋線・東武東上線も同時に乗り入れ開始です。

このあたりはJRとの競争の様相ですが、そのJRの方では、浦和駅に新宿湘南ラインが停車するようになります。

利便性の点ではこの変化がだいぶ大きいです。確かに浦和は新幹線は止まりませんが、湘南ラインを使うと、新宿・渋谷・横浜はもちろん、小田原や逗子も一本ですからね。あとは2年後の、上野駅・東京駅間の東北縦貫線が開通すれば、名前はなんというかわかりませんが、今まで上野止まりの宇都宮線・高崎線が、「東京湘南ライン」とでもいう路線に変わりますので、東京駅や品川駅も一本で「早く」行けるようになって完璧。

皆様、便利になる浦和へどうぞお越しください。もっとも、大宮駅はもともとその殆どを満たしているので、やはり鉄道の街にはかないませんが。

カウントダウンしていたんですね。

左がまもなく使用するホーム。

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三陸の鉄路

今から32年前。高校生の時の夏休み。父が仕事で宮城・岩手に出かけるという時に一緒に出かけたことがあります。この頃はすでに東北道が仙台あたりまでは開通していたため、車でした。

岩手の江刺あたりから岩手の山地に入り、途中、遠野を経由して釜石に出ました。当時、取引先があった宮古と久慈に一泊ずつしたのですが、父が用事で出かけている間、私は自由に海で泳いだりしていました。この頃、まだ現在の三陸鉄道は工事中で、久慈から南は普代という駅が終点になっていました。終点とは言っても、その先に真っ直ぐに新しい線路が作られていて、だいぶ先のトンネルに消えていました。

なんとなくローカル線というには似つかわしくない、コンクリートの頑丈なまっすぐの線路が伸びていて、この先もうすぐ新しい路線として完成するのだろうなと思いました。

確かに、日本全国、海岸線沿いには大体線路が通っているのに、三陸海岸沿いは一部しかありませんでした。

そしてその数年のち、沿線悲願の三陸の鉄道が全通したというニュースが流れました。

その後、なかなか鉄道で出かける機会はほとんどなく、丁度30年後、一昨年の2月初旬に、八戸から久慈・宮古・釜石と三陸海岸沿いをようやく乗り通すことになりました。そして翌月に震災が起きました。

実際に乗ってよくわかったのですが、海岸沿いの線路とはいえ、鉄道路線としては新しい路線だけに、ほとんどがトンネルとコンクリートの橋。切り立ったリアス式海岸には、そうでなくては鉄道を通せなかったのですが、そのコンクリートの橋脚までが、あのように破壊されてしまうことには驚愕としか表現のしようがありません。

長い年月かかってようやく全通した鉄道。それが分断されている現状。それでも三陸鉄道は、先の事情で、まだ復旧の目処がたちやすい条件の線路といえるのでしょう。それ以外のJR部分の先行きが見えない事は地元に人にとって大変な問題です。

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